それって何なん

自分に住みよい世の中をつくりたい人に

別に理系にはなりたくありませんけど?

「本当はみんな理系になりたいのに、なれない奴が文系をやっている」と語る男性へのインタビュー記事を、割と最近何かで見た。確かここ1か月以内に。
Yahooニュースにも出ていたと思うので、見た人も多いのでは。

みんな理系になりたがってるだって? そうなの?
私は別に。私みたいに、なりたがらない奴もいてるということをその人は理解できないらしい。

うーむ、さすがは人の心の動きに疎い理系だわ。

確かに生涯賃金とか? 稼ぎがいいのは認める。
でもそれだけで「なりたい」とまでは思わんわ。


でも、
①「カネにつられて、本来文系アタマなのにもかかわらず理系仕事をしている人」は結構いそうだ。

また、
②「理科系がわかるオレかっこいい」という思いから、本来文系アタマなのにもかかわらず理系仕事をしている人も結構いそうだ。

上記2種類の人間だけを見て彼は、みんなが理系になりたがってると判断しちゃってるのだろうか。理系なのにずいぶんと短絡的な思考だな。

ではなぜ私は、理系になりたいと思わないのか、今から論理的に説明してやる(上から目線)。

科学というのは再現性が肝心だから、誰がやっても同じ結果が出ることが求められる。
誰がやっても同じ結果になるなら、何も自分がやらなければならない必然性はない。

なのでいまいち「自分がやる」意義が薄いと思えてしまう。

保険見直し

はあ? それって何なん。

後から見直さなきゃいけなくなる保険なら初めから勧めるな!

ファイナンシャルプランナー

●●円毎月積み立てていけば〇年後にはこうなりますだって?

それ絶対やな!

予言が外れたら全額返還しますぐらいの誠意見せろ、

ってゆーか、

見たくもない夢無理やり見せようとしないでくれ。

当たりもしない将来の話をしてメシが食えるなんて、

天気予報よりも占いよりも予想屋よりもタチが悪いぞ。

 

そもそもなんで「保険」が金融商品に入るのかわからん。

「保険」というものの存在を認めるとしたら、それはやっぱり、

健康のためにあるんじゃないの? 金融じゃなく。

オトナになっても、素朴にわかんないぞ。

 

有名だけど実在しない時代劇

 

誰もが知ってる、時代劇のあの有名なワンシーン。

でも、じゃあ一体何というドラマ(あるいは映画)の、どの辺で出て

くるのかというと、誰も知らなくはないだろうか。

そもそも本当にそんなドラマがあったのか…?

 

 

越後屋:お代官様。例の件、これでひとつよしなに

悪代官:越後屋、これはなんじゃ?

越後屋:お代官様のお好きな山吹色のお菓子でございます

菓子の箱を開けると、そこには大量の小判が・・・

悪代官:越後屋、おぬしもワルよのう

越後屋:いえいえ、お代官様ほどでは…ハッハッ

 

 

現在でこそゲームやバラエティの中でパロディー的に使われるくだりとして有名だが、果たしてその元ネタは何だったのだろうか。

こんなやりとりのある話は本当にあったのか。あったとしたら何て番組の第何話だ?水戸黄門か、銭形平次か、大岡越前か、それとも…

よく似た話は沢山あるだろう。しかし、ぴったり一致するのは?

西海屋や大黒屋や桔梗屋ではなく、そのものずばり越後屋なのは。

(ちなみにこれらの屋号は江戸ではありふれており、実際にはその名前だからといって悪徳業者なわけではなかった。念のため)

もしかすると、本当はそんな話はないのに、まるであったかのように語られている一種の都市伝説のようなものなのだろうか。

「東京都大田区は、太田区だった時期があった」とかいうのと同様の。

 

これがステレオタイプなイメージとして語られるようになったのは、いつごろだろうか。勧善懲悪の時代劇全盛期の70年代~80年代初頭には、まだこうしたイメージの固定化はなかった気がする。

 

実は探してみたが、ぴったりと「これ!」というものはドラマでは見つからなかった。

(探し方が不十分な可能性もある。もしご存知の方がいらしたら、ご一報頂ければ有難い)

 

しかし、CMにはあった。

時は1989年。悪代官役で有名な俳優の川合伸旺さんが、田口計さんと共演した飴のCM撮影の際にアドリブとして生まれたやりとりだそうだ。当初用意されていたセリフは違うものだったが、やっているうちに二人でこれに変えてしまった。それが採用となりお茶の間に流れた結果定着してしまい、そのままドラマのセリフのように思われている、というもの。

 

どうやらこれが元ネタらしい。

 

今回追跡できたのはここまで。恐らく80年代以前にも似たようなストーリーは山ほど作られているはず。しかしドラマのフィルムもすべて残っているとも限らないし、映像作品として現存しているものとしてはこのCMが最初と見てよさそうだ。それをひとつのステレオタイプとして提示したのは、

 

それより。

 

ほんの短時間のこのシーンが、のちの世の商売ネタに与えた影響については驚くほどのものがある。

ゲームやパチスロになっているのはお馴染みのこと、賄賂として贈答されていた「お菓子」などは、複数の菓子業者が再現(っても本物の小判が入っているわけじゃないけど)を試みて販売している。

商品名もさまざまで、お菓子の種類も饅頭だったり煎餅だったり最中だったりとさまざまだが、ビジネスの種はこんなところからも見つかるものなのかと、やや唖然とするものはあるが、筆者などはただ敬服するばかりなのであった。

Cool Struttin’ ~人の歩き方を笑うな~

 要はCoolなStruttin’の話。

 

右手と右足、左手と左足を同時に出して歩くと、笑われる。

いったい何がおかしいというのか。

小学校の運動会とかで行進の練習ともなると、手足左右交互の歩き方に強制的に矯正される。

何かの拍子にそれが乱れて、

「わぁ~恥ずかしい。緊張して同じ方向の手と足を出して歩いちゃった」

などと言う人がいる。

どうして恥ずかしがらなくてはいけないのだろう。

 

人の歩き方を笑うな。

 

そもそも何のために「歩く」のか。そりゃ身体を移動させるための手段に過ぎない。

歩くのは人間ばかりじゃない。犬も歩けば棒に当たる猫も歩く。およそ動くものと書いて動物と呼ばれるモノは、多くの種類のものが移動のために「歩く」という手法を用いている。だったら移動という目的が果たせればそれでよいではないか。歩き方などどうでも。

 

人として正しいとされる右手と左足、左手と右足が同時に着地・離地する歩き方は斜対歩と言う。これに対して左手左足、右手右足を同時に動かす歩き方はナンバ歩き≒側対歩と言う(厳密にはナンバ歩きと側対歩は微妙に違うらしい。ナンバ歩きは腕は振らず右肩と右足、左肩と左足が一緒に出る)。

 

ナンバとは何か。一説には、昔、農作業をするときに履いた「田下駄」のことであるらしい。それを履いて田のぬかるみを歩くと誰でも同じ側の手足が同時に出る。また、大阪のナンバの田で履いたからとする説もあるが、はっきりとはわかっていない。

本来、日本人の歩き方はこのナンバ歩きだったという。斜対歩の方はせいぜい明治になって西洋文明が取り入れられた際、軍事教練とかで西洋式の行進を教え込んだに過ぎない。

確かに日本舞踊とかは側対歩だ(江戸時代の飛脚の絵も側対歩だが、画法がそうだというだけで写実とは違うかも。江戸期には斜対歩は全くなかったかというとそれも謎で、現在なお論争を呼んでいる)。

また、昔の日本人以外でも、キリン、ラクダ、象などは側対歩である。大型で脚も長いので、斜対歩だと前脚と後脚がぶつかってしまうのである。まあ2本脚で歩く人間には彼らの歩行は参考にならないが。

 

近年~21世紀になってから~、ナンバ歩きは体をねじらないから内臓にいいとか、速く歩けるとか、武道家や陸上選手がこれで記録を出したとか、妙に持ち上げられている。確かにそういう側面はあるのだとしても、やや期待し過ぎの感がある。スポーツ選手が他の普段の練習もせず歩行を変えるだけで結果が出せるかというと「?」である。あるいは今までの(スポーツ科学などの)行き過ぎた西欧文明礼賛への反動なのか。

 

そうした効果効能などたとえ無くても、ナンバ歩きで歩きたいなら、歩かせてくれたらよいではないか。誰にも迷惑かけない。いや迷惑どころか、狭い道で他人とすれ違うとき体ごとやや横向きになる分、占領する道幅が減るので大変親切である。法にも触れない。側対歩は即逮捕、なんてことにはならない。カッコ悪い? かっこいいか悪いかというのも、後天的に何度も刷り込まれることによってかっこよく見えるように慣らされた感覚に過ぎない。

 

それを学校という所では、

「歩くときは右手と左足、左手と右足を同時に出すんですよ。じゃないと変ですよ。おかしいですよ。同じ方の手足を出す子のことは笑ってやりましょう。いじめのターゲットにしてもかまいませんよ」という教育をずっとしてきた。

子供達は真に受けてそうした価値観を刷り込まれ、そしてまたひとついじめの種が増える。ナンバ歩きの子の前でわざとその歩き方を真似して嘲笑したりするのだ。

 

あなたのお子さんは違うと言えるか? 親の見ていない所で、少数派の歩き方をする者の真似をしてからかったりはしていないだろうか。それは立派ないじめだ。

 

これがはっきりと障害者とわかる者なら、からかうどころか必要に応じて手助けしなくてはという親切心も自然に芽生える。杖をついていたり、車椅子だったりなら尚更。ところが障害者手帳も持ってなく、ただヨタヨタと一般的じゃない歩行をしている者に対しては、相手が大人でも遠慮なくバカにする。子供は残酷だから。

 

自己啓発の本とかで、

「初対面の相手とラポールを築くには、相手に呼吸や仕草を合わせましょう(つまり真似しましょう)」

としているものがあるが、とんでもない誤解だ。自分の仕草の変なところを見せつけられたら不快なだけだ。

 

中国では昔から、相手の身ぶりを真似するのはマナーとして失礼だという感覚があったと聞いたことがある。

大変素晴らしい考えだが、現代の中国人にもその感覚が残っているかはわからない。

逆に平気で笑い者にする国もある。韓国の病身舞(障害者の仕草を真似た踊り)とか。フランスあたりのピエロが得意とするパントマイムだって、真似された者にとっては決して愉快なものではない。たとえその真似がどんなに上手くても。

 

わざとそれをやっておどけてみせた人もいた、か。チャップリンとか。あれは撮影したフィルムのコマの一部をわざと削除したのであって、ナマであんな歩き方だったわけではない。

靴の片方のヒールをわざと取って歩いたというモンローウォークは?

あれは少なくとも「笑わせる」ためにやったんではない…な。多分。

おそうじにバミテープ

bami床や壁、ドアなどに掃除すべきシミや汚れがあるのに気づいたとします。

それはほんのスポット程度の大きさで、忙しく動き回っている時にはその存在すら気にならない。でも確かに存在する。

 

ワタクシなら、ああ、次回掃除する時に拭き取ろうと思います。でも正直なところワタクシは、あまり頻繁に掃除をするヒトではありません。掃除機がけと拭き掃除をフルコースでやるのは週1ぐらい。だって掃除って、洗濯や料理に比べて、やったかやってないかわかりにくいんだもん。あまり汚れてないのに掃除しても達成感があまり沸かない。むしろムダに動き回って疲れたなーと感じるだけ。ある程度汚れをためてからじゃないと、ぱっと見でわかるぐらい汚れてからじゃないとキレイにした気もしないというものです。

でも掃除というのは、冒頭に述べた「忙しく動き回る」行為でもありますから、小さな汚れなどついつい見落として、そのまま掃除を終えてしまうことがしばしばあります。いえ、1つなら覚えていられるんですよ。でも、汚れのある箇所が複数に及ぶと、1つ2つは拭き取ったけど、もう1つここを忘れてた、などということは必ず出てまいります。

 

そうなると、もう雑巾しまっちゃったし、また出してやり直すのめんどくさいなーと。何より掃除の本編より、その、後から発生したやり直しにエネルギーを費やすというのは、何とも疲れるものでございます。

 

で結局、「いいやーまた次回。次回こそは忘れないで拭き取ろう」となり、1週間延び。で1週間後も、また見落としてしまい2週間延び…となり、どんどん汚れが放置されていくわけでございます。こういうことってよくありますよね。あれ? ワタクシだけですか?

まあ毎日掃除するという方や、シミに気づいたらすぐ拭き取るという方、あるいはシミのある複数の箇所をすべて覚えていられる記憶力の良い方、すべて覚えていられるほど狭い家に住んでいる方などはこの限りではないのでしょうけれど。

 

そこでです!!

汚れの場所を忘れないために、掃除の前に汚れのすぐ隣りに、小さく切ったテープを目印として貼っておくのです。バミテープと同様の考え方ですね。

バミテープとは。

バミる時に使用するテープのことです。

では、バミるとは?

漢字では「場見る」と書きます。読んで字の如く場を見る、撮影現場で人の立ち位置や物の置き位置を決める時に床に目印として、小さく切ったテープを貼っておくことを言います。

 

例えば人の立ち位置などは、テープ2本をタテヨコにT字型に組み合わせて貼ることが多いようです。T字の袖といいますか、タテ棒の左右に両足をはめ込むように。こうすると、どっち向いて立つとよいかも明確になりますね。

汚れの場所の目印にするなら、そこまでする必要はありません。ただテープを短く切って貼っておくだけです。簡単ですね。

 

では、バミテープに使用するテープは、どんなものがよいでしょう。

念のため書いときますと、バミテープという商品が売っているわけではございません。そこいらのテープをバミりに利用しているだけです。

掃除が終わったら剥がすことが前提ですので、剥がしやすいものがよいでしょう。しかも剥がした後、テープの粘着成分が床にくっつかないものが理想です。

ですのでセロテープは剥がしづらくお奨めできません。剥がす前提で作られているので養生テープは最適でしょう。その他、ビニールテープ、ガファーテープも使えます。どうせ剥がすんだったらフセン紙でもいいじゃないかとなりそうですが、剥がれやすすぎてちょっとの力で動いてしまい、また、濡れても劣化するので向きません。そして、わかりやすいように床とは違う色のものがよいでしょう。

 

これを貼っておくことで、次回の掃除の際に注意しなくてはならない箇所がわかりやすくなります。

次回の掃除までに来客でもなければ、まあ気にならないでしょう。でももし来客があったら? やっぱり気にしません私は。アハハ。

エモとは

無題.png「エモ」とか「エモい」とか、最近一般人にも広く使われるようになってきたけど、あれって何なん?

ベンチがアホやからとか言ってた人か? 違うな。古いな。

いや、意味はワシかてわかっとる。

英語のemotional、情感のある、情緒的なといったところ。

参考:

「エモい(Wikipedia)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/エモい

それがなぜかハードコア・パンクな連中の音楽の一種のことを指すようになったらしい。

ハードコア・パンク

あれも何なんでしょうね。

始めからしまいまで大音量で、ボーカルもうぎゃあうぎゃあ絶叫してて。

そういうのが好きな人は別にかまわないけど、私にはどの曲聴いても同じに聞こえる。

いや聴く側はそれでよくても、演る側は?

音楽活動するには持ち曲が複数あるはずで。

あの人達は、自分の作った曲の、楽曲Aと楽曲Bの違いがわかってて演ってるんだろうか。

自分の曲なのに区別つかなくなったりしないんだろうか。心配。

何をやっても結局最後はドシャメシャで終わりそう……

そんなジャンルが情緒的なのか?

絶叫するには感情が必要で、そのことをもって情緒的と言っているのか。

……わからん。

いや、でもさ、ハードコアに限らず、音楽に限らず、表現は、

芸能も芸術もすべて、情感はあるのが当たり前なのでは?

わざわざ情感のあるものを「エモい」と呼ぶと、

それ以外の表現物はエモくないということになってしまい、

近頃の表現はこんなにも情感が失われたものばかり、

人間味のない世の中になったものじゃのおと失望するばかりなのでは。

そもそもエモくない表現は存在するのか。

演歌みたいに情に訴えてナンボの音楽ではあっちもこっちも「エモい」なのか。

いやぁ、いちいちそんなこと言わないぞ。

元々、音楽評論なんかでは「エモーショナルな歌唱」なんて言葉は普通に使われていた。

それが今や音楽以外でも、日常の他人や自分の言動に対しても、

エモいかエモくないかがいちいち評価されるようになってしまった。

にんげんだもの

emotionは誰にもあるのが当たり前だろ。

ただそれを他者に向かって出す濃度の濃淡は確かにあるな。

現代においては、それが特に「濃い」ものに対して「エモい」と指摘されてる、

そう考えるとすっきりする。

ただ、わざわざ指摘するようになったということは、

それだけ「エモくないのがメジャー、多数派」な世の中になってきたという気がして、

やっぱり情感が失われつつある時代に生きているんだという一抹の淋しさを感じてしまふ。

そして、emotionの「薄い」表現に対しては、エモくない、すなわち情感が「ない」

と見做されてしまっていることにも一抹の淋しさを感じてしまふ。

薄くたってemotionは確かに「存在」しているのに。

それを読み取れる人が少なくなってきているということに繋がるから。